農と文について。
農的な生活と農業は異なる。
農業はビジネスであり、農的生活は、あくまでも家庭菜園レベルの話であり、だいぶ違う。
農について関心があり、農業を志す若者はこの違いを肝に銘じなければならない。
どちらがいいというわけでもなく、それぞれの状況立場に合わせて考えないといけない。
しかしながら、ここに日本農業の抱えている根本的な問題もあると思う。
そもそも農業は資本主義と相容れないのではないか、という疑問である。
これは内田樹も本の中で言及している。
しかし若い人たちがいま農業に目線を向けているというのも、いまの混沌とした現状を見れば理解できることであり、僕自身もここに関心がある。
個人的には、それが文をやる上でも必要になると思うからで。
文の基本はどこにあるのか。それを辿れば、やはり自分で生活を1から作っていくこと、がまずないといけない。そのためには食から押さえるのが基本だ。
自律する、というのは根本的にそういう生活をまずいうと思う。
しかしそういう発想自体が日本の貧困化を象徴しているのかもしれない。
文化というのはまず余剰であり、余裕がないといけないし、そうした都市部の文化人、というのがいわゆる文壇も率いていて、今もそれは大抵変わらないだろう。
だが、例えば丸山健二とか、田舎に行く作家も昔からいて、基本文は都市部のものだから、それに反発して田舎に行く人も少数だがいるだろう。
和歌山を書いた中上健次も同じである。こういう田舎を書く人は少数だが常にいるわけである。
文といのはいかに、現代に対して、この資本主義に対して、力を持てるのだろうか。